MESSAGE FROM 板垣真理子
Felabrationが日本で開催される?!


このニュースを聞いたときには、心底ときめいた。これは、世界にその音楽と生き方で影響を与えたナイジェリアの音楽家、フェラ・アニクラポ・クティ(故人)を讃えるために始められ、すでに世界各地で多くのアーティストを巻き込みながら開催されてきた。彼の創り出した「アフロビート」という、まさにドキンドキンという鼓動のような音楽とその祭りが、さまざまにアフロビートとの関りをもってきた人たちにより、もうすぐ、2024年10月24日、東京、下北沢で開催され、体験できる。詳しくは、この文末(すぐ読みたい方は★★★印へ)と、Felabration Tokyoのサイトもご参照!
では、Fela Kuti(フェラ・クティ)とAfrobeat(アフロ・ビート) とは、何? を私の体験も交えて書きたい。


 Fela Kuti とAfrobeat 
忘れもしない、1984年6月。私はナイジェリアの旧首都レゴス(現地発音。通常表記はラゴス)の、何万人も収容する巨大スタジアムにぽつん、と一人の日本人としていた。
真っ暗で、真っ黒。スタジアムをびっしりと埋め尽くす人々はコンサートの熱気と音楽の喜びに顔を上気させ、てかる肌と、薄暗がりでも白目がくっきりと浮かび上がる瞳を輝かせて、熱く揺れていた。
 もうすぐ、ナイジェリアの誇るアフロビートの勇、フェラ・アニクラポ・クティが登場する。これは、オリンピック選手団を海外へ送り出すファンドのためのコンサートだった。ヴィクター・ウワイフォーや、シキル・アインデ・バリスターなど名だたるナイジェリアの音楽家が登場した後、トリをとったのがフェラだった。人々の期待とテンションの高まりははっきりと見て取れるほど。もうとっくに深夜を回る頃。彼らがステージに上がる前、勧められてバックステージに回り、対面した。取り巻きに囲まれて座るフェラ。片頬が腫れている。「今日、僕はこんなふうだけど、写真を撮ってもいいよ」と、思いがけなくか細い声で優しく言った。その意外性が強く印象に残っている。周囲のメンバーたちが一気に浮足立ったのも見て取れた。フェラを含め彼らは常に、口癖のように「日本に行きたい」と言っていたから。結局それは叶わぬ夢となった。
 この日、私がスタジアムに出かけて、幸運にもフェラのライブを目の当たりにできたのは、ほんの少し前にロンドンで、同じくナイジェリアの偉大な音楽家、キング・サニー・アデのレコーディング中をキャッチにしてインタビューしていたからだ。「君は僕より先にナイジェリア入りする。僕も後で帰るけど、それまでの間にこういう素晴らしいコンサートがあるから行ってごらん」と紹介状を書いてくれた。それがフェラと私の出会い。その手紙は今でも宝物だ。フェラとの縁はサニー・アデが紡いでくれた。
 その後、もちろんアデとも何度も会ったが、フェラのコンサートにも数多く出かけた。言わずと知れた、彼の持ち場「シュライン」。レゴス大学の講堂。地方の街のコンサート。いつも、彼のライブは魅力的だった。
 あっという間にその空間を満たす、濃密な空気。幾層にも重なった音の群れ(総勢20名近くがステージに並ぶ)。歌が始まるまでの、長~い、長~い、インスト。独特なメイクを施したクィーン(女性たち)とフェラの踊り。メッセージをこめた台詞。ジョーク、ギャグ、隠喩、笑い。お尻をぶつけてふざけ合う踊り。「闘志」というイメージには収まりきらない、剽軽な人でもあった。音、独特の「緩み」、催眠的なメロディーとパーカッションの繰り返し、ズンと大地と響き合うようなディープなドラムとベース。そして語るかのようなサックスとキーボードはフェラのモノだ。飽きることがなかった。
 そう、この人を惹きこむ黒々とした音の森の背後には、彼の生きざまと思想がくっきりと背景を成していた。その発端は米国行きだった。それ以前に彼は、なんとかうまく家族を言いくるめてロンドンのトリニティ・カレッジで音楽(この時はトランペット)を学んでいるが、その時にはまだ大いなる目覚めはやってきていない。
 初の米国行きで「それ」は突然やって来る。米国の都市に聳え立つ「摩天楼」に衝撃を受けた彼。素直に「なんと素晴らしいものなのだ、アフリカ人はこんなものは絶対に造れない」と感動してしまう。ところが、直後に彼は自身のその内面を深く恥じることになる。
 時は、公民権運動の熱まっ盛りの1960年代後半。彼は付き合い始めた女性、サンドラさんの影響でマルコムXを知り、世界中のアフリカンの目覚めが必要なことを痛感する。
「俺はなんとバカだったのか、僕らアフリカンはそれぞれの存在と文化に誇りを持つべきだったのだ」。10か月の滞在の後に帰国した彼は、その想いを自国、ナイジェリアで実践し始める。アジテートし、「眠っている」人々を鼓舞し(これは政府には大変な厄介ごとだった)、抑圧的で腐敗にまみれたな政府批判をした(あくまで言葉と音楽で)。そして、その結果、逆に暴力によってぼこぼこにしてやられ、何度もの投獄の憂き目にもあう。この辺りの詳しいことはここでは書ききれない。※
もっとも激しい「襲撃」を受けた彼の拠点「カラクタ共和国」は、1000人もの兵士を送り込まれてめちゃめちゃに破壊された後、炎上した(1977年)共にいた人々も大変な被害に遭った。彼の作品はすべて名曲揃いで優劣つけがたいほどだが、それもすべてが彼自身の体験のもとに紡ぎだされたものだったからだ。特にこの前後には印象的なものも多い。かの有名な「Zombi」「Un known Soldier」「Cofin for Head of State」などなど。「Unknown・・・」はもちろん、痛烈な皮肉「Cofin・・・」は、襲撃が原因で亡くなった母親のお棺を政府トップの玄関先に本当に置いてくる、という行動を歌ったもの。いつもながらの「ゆるやかでありながら、アグレッシヴで、激しい情動」の他に、なんともいえない悲しみが込められていて胸に迫る。
 そうなのだ、彼の人生の中で、母の存在は限りなく大きかった。少し、彼の家系的なバックグラウンドにも触れておこう。父親は、レゴスから少し内陸に入った地方都市アベオクタという町のキリスト教の牧師で教師だった。そういう家庭にも関わらず「アフリカンのアイデンティティ」に目覚めてしまった彼は、自らの出である「ヨルバの人々」の多神教の神々を信じることを選択する。牧師の妻という立場であったフェラの母親も、ともにこれに準じることになる。
 そもそも、アベオクタという町は社会的、政治的に目覚めた地域で、イギリスの植民地時代にもかなりな抵抗をしめした人達であったらしい。この街の外れには、大きな岩山「オルモロック」が、ドカンと存在する。ここは、そんな抵抗の拠点になった、とも聞いた。「その印象的な写真」をここに添付しておく。今は、どうやら、階段やらエレベーターまでできたというが、私の訪問した頃にはご覧の通り、上に登るにはなぁんのとっかかりもない所を、滑り落ちないように必死で登らなければならなかった(ここにいる彼らは目を瞠はるような敏捷さで、さささっと移動して驚かされた)。
 さらに! この岩山は宗教的な意味合いを持つ山でもある。岩山の裏側には、安易に見てはならない、「ヨルバ神の像」が崇め置かれている。フェラが自らの文化の中の重要な一翼を担う多神教ヨルバの神々を、レゴスにあるシュラインのバックステージに祀るのも自然だった。彼は、スピリチュアルな点で深くヨルバに入り込んだのも確かだが、同時に政治社会的にも意識の強い人だった。彼の母親の話しに戻るが。
 彼女、フンミラヨ・クティは、アベオクタで不当に高い「女性だけに振り当てられた税」に対して抗議行動を起こし、一万人以上の人々(主に女性)の支持を得て、抗議を成功させる。彼女は、ナイジェリアの女性で初めて車の運転をしてそこいらじゅうを走り廻った人でもある。
 また、国境を越えてガーナの初代大統領、ンクルマ(通常表記エンクルマ)とも親交があり、フェラもかなり若い頃にガーナで彼に会っている。ガーナはアフリカの中でもっとも早く独立を達成した国(イギリスから)。同様に他国も影響を受けて、次々と独立に向かっていく。ンクルマは、政治運動のために投獄されていた獄中から立候補して当選した、という逸話を持つ(当時は直接的に大統領ではなく、政治家として)。
 また、ナイジェリア出身で、アフリカン初のノーベル賞作家である、ウォレ・ショインカは、フェラ・クティの従弟である(現在20024年に90歳で健在)。余談になるが、ショインカは、2016年米国大統領選の結果を不満として、保持していた米国の市民権を返上した。そして今年2024年、キューバを訪問し、この8月ミゲル・ディアスカネル大統領から名誉賞を受与された。ところで、知る人ぞ知る、フェラの伝記「Fela!」を英語で記したカルロス・ムーアはキューバ人ジャーナリストである。私も拙書執筆※の折には自ら全訳し(まだ邦訳は出ていなかった)素晴らしく参考にさせていただいた。
話しがずいぶん広がってしまったが、こうして網の目状に強い繋がりと情熱に富んだ環境がフェラを育んだのも確かであったろう。生前から彼の周囲にはその音楽と生き方に惹かれて多くの音楽家やアーティストが集っていた。
そこに自らの目覚めが加わり、さらにその人生を賭けた言葉と音楽による闘いは加速し熱を帯びた。今、振り返って見ると、彼がいかに才能豊かで、しかも多彩であったかにも思いは及ぶ。まず音楽は言うに及ばず。アフリカの西部海岸沿いに生まれて人気を博したハイライフをベースに持ち、そこにジャズ、ソウル、ファンク、ジュジュ(ヨルバの宗教とその音楽、文化、トランスを伴なう)的要素が分かちがたく生きている、世界的な広がりまでを見せる「アフロビート」を編み出した。
 言葉の才能。政治家を名指しで滅多切りにし、しかも人々からも熱狂的に迎え入れられた。そこには先に記したような言葉の間の余裕やユーモアも大きく作用していただろう。「リラックス!」は、いつも彼に会った時に、真っ先にかけられる言葉だった。
 政治や社会を見る眼差しの鋭さ。独特のファッション、ヨルバ的化粧など。彼の存在そのものが重層的であったが、それが遥かに横に拡がり、亡くなった後もその存在と音楽が世界に影響を与え続けている。


★★★ そして、Felabration Tokyo!
彼の偉業を讃え伝えようというFelabration は、彼の娘であるイェニによって提唱され、フェラの遺した偉大なモノの継承を担っている。生前のその人への想いが強ければ強いほど、死後もその想いは変わることがない。フェラ没後、27年。ついに、Tokyo でFelabrationが開催されるというニュースには心ときめかないわけにはいかない。これ以前、すでに「フェラの子供たち」(フェラとアフロビートに心酔している、という象徴的な意味)の一人であるAya Ifakemi Yem によって2012年から10年以上大阪で開催されていたが、今回はさらなるメンバーの広がりを見せて、世界各地でアフロビートに繋がっている人たちが集結している。今回のTokyo も以前からのOsakaも、正式に公認を得ているもの。
立ち上げと出演は、2010年にNYのブロードウェイで上演された「Fela!」にパーカッションで参加したYoshi Takemasa(NYのAntibalas参加、自身のAkoya Afrobeat)、Akoya のドラマーで、Yoshiと共に今回のF・Tokyo の発案者であるYoshio Tony Kobayashi。Kingdam☆AfrocksのNAOITO、彼は今回のライブのヘッドライナーである、総勢20名からなるRSJ Collectivesを率いる、などなど。詳しいプロフィールは、Felabration Tokyoのサイト に譲るが、さらに嬉しいのは、今回のテーマ・デザインを、長い間フェラのアルバムのデザインをしてきたLemi Ghariokwuが担当していること。印象的な洗練と、フェラの疾走感も感じさせてくれる。彼、Lemiには、上記したAkoya Afrobeat の2枚のCDジャケットも手掛けてもらっているという。
こうして、網の目のように地球に張り巡らされたフェラとアフロビートは、さらに時間を超えて次の世代、さらにもうすでに次の世代にまで、その流れは続いている。
そして、驚くのは今回のFelabration Tokyoの発案から、実現までの期間の短さだ。毎年、逗子で開催されている映画祭で、今年2024年5月、フェラの映画が上映されたことで、以前から心惹かれいつかやってみたいと思っていたFelabrationの実現に向けて一気に始動し始めた、という。「そして、10月? 短いですね?」「もう、熱と勢いで」。さらに、こうも続ける。「僕たちは、次の世代のためになにかやりたい、という気持ちを持ち続けている。もちろん、若い人たちだけではなくて、世代を超えて、音楽のジャンルも超えて、繋がっていくもの。アフロビートというのは、それ自体が魅力的な音楽であるだけではなく、多くの要素を吸収してできてきたものだから、それだけ様々なものを繋げていく力をもっていると思うんだ」。
この溢れる広がりと、時によって醸造される暖かな脈動がFelabration Tokyo からさらに引き継がれ、広がりを見せ、豊なものになっていくこと、そして人々になにかを与え続けていくことを願って止まない。
10月24日、いったいどんなライブが展開し、そして次に繋がっていくのか、ドキドキが止まらない。

※拙書「武器なき祈り/フェラ・クティ  アフロ・ビートという名の闘い」(2004年三五館刊)について。出版当初の説明文から。「フェラ・クティは、アフロ・ビートという独自の音楽を携えてナイジェリアのストラグルに立ち向かった。28人の妻とともに―。武器か祈りか」注:もちろん、フェラは音楽による祈りを選んだ。彼は「闘志」と呼ばれても一度も武器を使用したことは無かった。「妻」に関しては、紆余曲折あるので、割愛。

□板垣真理子 写真家、文筆家、歌手
ジャズ・ミュージシャンの撮影をきっかけとして写真家としての活動を開始。以来、アフリカをはじめとして、ブラジル・カリブ・アジアなど世界の灼熱の地を単身渡り歩く写真家であるとともに、熱帯のごとき熱い文章を著す。フェラとの出会いは、1984年6月、ナイジェリアに於いて、彼に会い、話し、写真を撮影した日本で最初の写真家である。その後、何度もの渡ナイジェリア、アフリカを果たす。彼が獄中にいた1985年を除いて、その自宅や演奏の場を目撃し続けてきた。また、サニー・アデやフェラの出身である「ヨルバの人々」の信仰する多神教の神々に強く惹かれ、それが渡った先であるブラジルやキューバを訪れ体験するために環大西洋の旅を続ける。ここ四半世紀はキューバに入り浸っている。キューバ在住中に、「歌う喜び」という貴重な体験を授かった。